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古川柳男色事情走書    南 ツカサ

其の四十九:歴史句の事

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  今回は、歴史上の人物にまつわる古川柳をご紹介します。そもそも男色の歴史は古代より始まっていますが、それが戦国時代に武士の間で主従を結ぶための一助として衆道へと変遷していきました。ですが、そこは古川柳のこと。史実は史実として、それを茶化すのが身上です。

今川は( けつ ) をいましめぬで亡び

  戦国時代、「桶狭間の戦い」(1560年)で、圧倒的な勢力を誇って臨んでいた武将・今川義元を討ち取ったのは、毛利秀高でした。その際、背後から槍で突かれたことを詠んでいると思われます。
  しかし、一方で「今川勢は数は多かったけれど、男色を禁止しなかったので、色にふけっていたから負けたのだ」とも読めるのが、この句の意味深なところです。戦ともなれば、男子の血も滾るもの。性欲も昂っていたことは想像に難くありませんが……そこに夢中になっている場合ではありませんね。

三ツほしへみせるへのこの向ふ疵

  「三ツほし」とは毛利氏の家紋です。毛利家に見せつけるということは、今川家の武士に違いありません。おそらく「俺たちはただやられただけじゃない。こっちだっておぬし達の何人かを倒したのだ」と言いたいのでしょう。でもそれを「男根の向う疵」と言うところが古川柳のユーモラスで、意地悪な目線です。「向こう疵」とは正面から戦って受けた傷のことです。無理やり敵の男子に組み伏せられて挿入されるほど屈辱的なことはありませんから、相手も必死で抵抗したことでしょう。でも、男根の疵を見せられても……ですよね。

幸村( ゆきむら ) ももちっといると( けつ ) をされ

  真田幸村も戦国時代の有名な武将ですね。「大阪夏の陣」(1615年)では、敵の徳川家康の本陣まで攻め込んだなどの武勇伝が残されています。それほど勇敢な武将であっても、天下泰平な時代になったら、男色の相手をさせられたことだろうという句です。といっても、真田幸村の享年は49歳と言われていますから、当時としてはかなりのおじさまです。果たして挑もうとする強者( つわもの ) がいたかは疑問が残ります。

実盛生国はへのこ不出来なり

  時代は遡り、平安末期の武将・斉藤実盛についての一句。実盛の出身地は越前でした。それが何故男根と関係あるかは「其の三十五:男根比べ」をご参照ください。古川柳では、越前出身の男子はとことんからかわれる運命にあるのです。

コラム「古川柳男色事情走書」著者プロフィール
南 ツカサ(みなみ・つかさ)  Twitter

古川柳愛好家。川柳雑誌「現代川柳」所属。

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