江戸時代の男娼街として、芳町・木挽町・湯島天神・糀町天神などなどがありますが、群を抜いて有名なのがこれまでにも取り上げてきた「芳町」です。
芳町は現在の日本橋人形町にあり、芝居小屋が立ち並ぶようになったのと併せて陰間茶屋も出来始め、江戸随一の男娼街になりました。
その芳町の一番のお得意客は、なんと言っても僧侶、お坊さんです。そのお坊さんにまつわる古川柳をご紹介します。
誰が?という主語が抜けていますが、これはお坊さんのことを詠んだ句です。お坊さんの世界では女色は厳禁。そのため寺小姓などを相手に男色が盛んに行われていたのですが、それでも女人相手の交接(セックス)を我慢しきれずに遊郭に遊ぶ時には「医者」に化けて行くというのが通例でした。遊郭に行く前に茶屋で医者の扮装に変え、帰る時にも再び僧侶の格好に着替える…となかなか苦労していたようです。その点、芳町ならば男相手なので、堂々と僧侶のまんまで行ける気軽な場所だった模様です。
「飲む・打つ・買う」の「打つ」は、一般的に博打のことを言いますが、ここでは放蕩をするといった意味で使われています。仏に仕える身でありながら、色にうつつを抜かすのは褒められたことではないですが、芳町で遊ぶ限りは「女色禁止」を守っている、という点で律義というべきなのでしょう。
「一旦那」とは、寺の檀家でもっとも有力者のことです。では、その一旦那が死んだことが、何故芳町に知れ渡るのでしょうか。
檀家の有力者であるということは、当然寺に支払うお布施も多く支払っています。多くのお布施があれば寺の懐は潤います。その潤ったお金でお坊さんは芳町に遊びます。つまり、一旦那は芳町の資金元でもあるのです。収入の減ったお坊さんが遊びに来てくれなくなれば、身入りが減るのですから、芳町の陰間茶屋にとっては他人事ではありません。水商売の難しいところですね。
一時は興隆を極めた芳町ですが、やがて衰退の道を辿ります。そこにはお上の取り締まりなどの事情もあるのですが、要因の一つにお坊さんたちの倫理の乱れがあったと言われています。「女色厳禁」を建前としていたお坊さんたちが、大っぴらに女遊びをするようになったんですね。芳町の客は減り、百人以上いた陰間たちも十四、五人に減ったという記録があります。寂しい話です
古川柳愛好家。川柳雑誌「現代川柳」所属。