男娼街としては芳町が断然有名で、陰間茶屋の数も多くありましたが、その他にも男娼街はありました。 今回は、芳町以外の男娼街を詠んだ句をご紹介します。
かつて日本橋の八丁堀の水路に「地蔵橋」という橋が架けられていました。八丁堀といえば、 町奉行のお役人たちが住んでいた場所です。その地蔵橋の裏側に、色街があったというのはなかなか興味深いですね。 どのような客層だったかは不明ですが、立地からいってやはりお役人さんたちだったのでしょうか。 「地蔵橋」といわずに「地蔵尻」と詠んでいるのは、男色交接 に欠かせない部位だからというのは、言うまでもありません。
神田花房町というのは、現在の秋葉原近辺に当たります。今ではビルなども立ち並び活発な街となっていますが、 江戸時代にはひっそりとした場所だった模様です。芳町よりは格が下がる街とされていましたが、陰間茶屋は三軒あり、お客が通っていたのですから、 それなりの華やかさはあったでしょう。なのに、「誰があんなとこ通うんだか」と、ちょっと小馬鹿にしているのが、この句です。自分が行かないなら、 大きなお世話ですよね。
お次は湯島天神です。陰間茶屋は十軒あり、陰間たちも四十名以上いたというのですから、かなり繁盛していた場所です。
お客は上野の寛永寺のお坊さんが多かったようです。つまり「我が山」とは上野の山のことですね。美しい陰間と身体を交わし、 うたた寝をしていたところ、自分が勤める寺の鐘で目を覚まさせられるという皮肉。 もう少し陰間と一緒にいたい…という気持ちを引き裂かれる感情を「憂き」と詠んでいます。別れ際には接吻の一つもしてもらえたのでしょうか。
上野・寛永寺のお坊さんたちが、いかに湯島で遊んでいたかがわかる句です。寛永寺の裏門に湯島天神がある、 と風景を詠んだだけのような句にも見えますが、「裏門」は「肛門 」の暗喩。寛永寺のお坊さんたちの男根 を処理していたのが、湯島の陰間たちの肛門だ、という意味です。まあ、ご近所に色街があれば、好き者だったら、通わずにいられない気持ちはわからないでもありません。
古川柳愛好家。川柳雑誌「現代川柳」所属。